祇管打坐(目覚める)


 「祇管打坐(しかんたざ)」(只管打坐ともいうともいう)とは、祇管は、ただひたすらにという意味。打坐は、坐禅に打ち込むことです。


 道元禅師は、「(せんしこぶついわ)く、参禅者(さんぜんしゃ)(しんじんだつらくなり)祇管打坐(しかんたざ)して始めて(はじ)(え)ん、焼香(しょうこう)礼拝(らいはい)念仏(ねんぶつ)修懺(しゅさん)(かんきん)(もち)いず」『正法眼蔵三昧王三昧の巻』

 

解説…

 先師なる如浄禅師(道元禅師の師匠)は仰せられた。

 参禅(坐禅を行うこと)とは、身心脱落(悟りの境地)である。ただひたすらに坐り始めて得ることができるのである。焼香も礼拝も念仏も修懺(自己の行いの罪を懺悔すること)も看経(経典を学び読むこと)もいらない。

 

 まずは、ひたすらに坐ることです。一つのことに没頭するのです。

 その時、他には何もいりません。坐禅をしている自分だけです。私が坐禅しますが、坐禅が私です。私と坐禅は一つです。

 「始めて得ん」とありますが何かを得ようとして坐禅(修行)をするのではなく、何かを捨て去ることが大切です。

 言ってしまえば、坐禅をしても何もなりません。何かを得ようとすることから迷い悩むのです。全てを捨て去るのです。消去法です。次から次に思いが浮かびますが繰り返し捨て去る作業です。

 全身全霊をかけて坐るのです。


 とにかく考えるより、まずは坐ってみましょう